hikaru_otsukiの日記

本、映画、散文

愛を嘲笑い、反抗する 映画『アネット』考察

 

 日本公開を待ちに待った『アネット』。2021年カンヌ国際映画祭でオープニング作品・監督賞を受賞した、レオン・ラッセル監督作品だ。

 アダム・ドライバーが主演のミュージカル映画ということでも話題をさらったが、いかんせんコンセプトが不気味なのだ。

 お互いのキャリアの絶頂期に結婚した、オペラのソプラノ歌手・アンと、挑戦的な芸風のコメディアンのヘンリー。愛し合う二人の間にはアネットという娘も生まれ、人生は順調なように見えたが……。

 

 二人の娘のアネットは、画面の中で異質な存在感を放つ。

 それはもう、文字通り「異質」なのだ。

 アネットはピノキオのような木彫りの人形で表現され、表情もあるがどこか歪で、薄ら寒い嫌悪感・恐怖を覚える。

「異質」な存在を、周りがまるで愛おしいもののように愛情を注ぐのを目の当たりにして、戸惑う観客も多かったのではないか。だってそれ、人形だよ?と口を出したくなるのを我慢するしかない私たちは、やきもきしながら物語を見守る羽目になる。

 

 アネットが人形として表現されている意味はなんだったのか?

 なぜ、アンとヘンリーの結婚生活は破綻してしまったのか?

 そもそも、この映画の主題はなんなのだろう?

 

 あまりにも圧倒的な映像は私たちの疑問を強く引き出す。

 ここでは、勝手に解釈した私なりの『アネット』を語っていきたい。

(以下、ネタバレになるので未視聴の方はご注意ください)



<『アネット』は、暴力の映画であり、「愛」と呼ばれてきたものを誇張して、殴り捨てる>

 

①『アネット』の主題

 

 私が『アネット』に見出したテーマは主に二つ。

 男性性が持つ暴力性と、「愛」への糾弾だ。

 ここで言う愛とは、穏やかで永続的な優しい感情を示していない。本作品における「愛」とは、私たちが古くから親しみつつも、実際には経験したことがないような猛々しい感情を指す。

「愛しているから殺した」

「愛しているから犠牲になってくれ」

「愛しているからここまでのことをした」

「(自分が思うように)愛してくれないなら、報復する」……。

 愛を理由に自分のエゴ、暴力性を正当化するようなこれらの言説は、芸術作品の中で特に顕著に現れる(この作品において、アンがオペラ歌手だったのは意図的だろう。この点に関しては後述する)。

 そんな「狂った愛」は、いつしか芸術を彩る華美な毒となり、観る者たちの道徳心には反発されながらも、どこか憧れられてきた。

 そんな「愛しているから」に真っ向から反抗しているのが、この『アネット』という映画だ。



 なぜ、ここまでして愛と暴力を結びつけたいのかというと、映画の終盤に近いシーンでこんなプラカードが出てきたからである。

 Stop Femicide。

 女を殺すな、女殺しをやめろ。

 妙にこのプラカードにピントが合っているのを見た瞬間、あ、これはこういう映画だったのかと納得してしまった。

 アンは劇中、何度も死ぬ。

 オペラの劇の中で死を遂げるシーンが何度も何度も、ヘンリーが運転するバイクの道路の先に映し出される。

 そもそもオペラという芸術は、女の死を含む、悲劇をメインに扱う芸術である。アンが単なる映画スターやモデルではこの物語は成り立たなかった、と主張したい理由はそこにある。

 ヘンリーという、男性性を表すようなキャラクターを配置し、その暴力性を描きたいということであれば、物語上、その対角線上に存在しなければいけないのは悲劇を象徴するような女性だろう。

 現に、彼女はヘンリーからもその死を揶揄される。彼女は何度も何度も死に、何度も何度もお辞儀をする。お辞儀は最後の一回でいい、そうじゃないと嘘くさいから、というヘンリーの感想はどこか嫌味ったらしい。

 彼のこの言葉は疑問を残す。

 ヘンリーは、本当に彼女のことを愛していたのだろうか?

(というか、彼女のことを大事に尊敬していたら、こんなこと言えなくない?というのが私の感想だった)

 ここから、ヘンリーの男性性について考えていきたい。



②ヘンリーが表す男性性

 

 

 ヘンリーはこの映画の中では男性性の権化・象徴として描かれている。

 この世界のマジョリティである白人男性であるヘンリーは、加えて見た目も「男らしい」。

 身長も高く、筋肉質。彼のショーでは、ボクサーをイメージしたバスローブを着て、観客への当たりも強い。「相手が少しイラっとするようなことをしていじる」という男性同士のコミュニケーションのようなショーだ。仕草も、マイクを振り回したり煽ったりと乱暴だ。

 そして、アンの夢の中の話なのか本当なのか、過去に6人もの女性に暴力を振るったというニュースもあがる。ヘンリーは怒りの感情を抑えられず、時に爆発するというのだ。

 つまり、彼は感情表現に問題がある。言葉(=理性)で自分を表現できず、周りに危害を及ぼすどころか殺人まで犯している。

(余談だが、彼の名前も示唆的のような。英国の王、ヘンリー8世の妻も6人だし……)

 

 ヘンリーの記号的な「男らしさ」だが、どれもプラスに働いている特徴ではない。

 これは、toxic masuculinity、有害な男性性と呼ばれる特徴に値する。

 彼は、そのマッチョな部分に引っ張られ、結婚生活や人生そのものの意味を見失っていく。

 

 

③ヘンリーが持つ、有害な男性性とは?

 

 

 例えばまず、この感情。

 ヘンリー・マクヘンリーとしてステージに立つ彼は、緑色のバスローブを着ている。観客席のライトも緑だ。ヘンリーを表す色は緑である、と映像で何度も刷り込まれるわけだが、この色、嫉妬の色である。

 これはシェイクスピアの「オセロー」や「ヴェニスの商人」からきた表現だが、ヘンリーと緑=嫉妬、と捉えると、映像面でも初めから、彼の結末を予告していたようにも感じられる。

 キャリアが下がることを知らない妻を羨み、自分が出会う前に妻と関係を持ち、今でも妻を愛している指揮者の友人を妬み、憎しみを覚える。あろうことか、自分が心血を注いだ(はずの)アネットでさえ、ヘンリーよりも指揮者の方を慕っているのだから、彼が理性の声を聞けなくなることは想像に難くない。

 

 加えて、自分や周りを「その人の仕事」など、行なっていることでしか判断できない点も興味深い。

 human beingとhuman doingという考え方があるが、ヘンリーの価値基準、判断基準はhuman doingなのだ。その人の性格や在り方ではなく、相手の職業や生産性でその人を判断する。

 つまり、人間の「タイトル」が重要なのであって、感情や感覚などは無視する傾向にある。

 だからこそ、彼は嫉妬の感情を上手くコントロールできないし、その悩みを話すこともない。

 これはヘンリー固有のものではなく、男性全体の問題として捉えられることも多い。

 

 男性が言葉での感情表現が下手である理由として、男性同士で感情のやりとりをすることは、成功の妨げになるからである、という一説がある。自分の弱みを晒さず、相手よりも早く昇進し、成功すること。それが男社会で認められる方法であったし、今でも資本主義社会がその風潮を加速させていると思う。

 ヘンリーもこのような価値観に影響された一人だということは、妻のキャリアを羨む行動でも明白だ。

 ヘンリーは、アンと自分のキャリアを比較し、自分が何者でもないかのような感情になり、映画の最後で、「I’m proud of youと彼女に言っていた日々に戻りたい」と嘆く。

 つまり、部下が上司にI’m proud of youとは言わないように、今の状況ではこのセリフを言うことができない。

 過去には自分も何かしらの成功体験・地位があったからこそ、アンと付き合い続けることができたわけだ。

 ヘンリーが「自分とアンが釣り合う」と思っていたのは(明言されていないが、結婚するということはそうなのだろうと推測した)、doingの部分に他ならない。

 

 彼のdoingへの執着は、アネットを利用し彼女を奇跡として売り出したことからも見いだせる。

 自分の仕事の行き先がない今、「アネットもこんな父親じゃかわいそうだろう」と口では言うものの、彼自身が別の職を見つけるなど働くことはせず、ぱっと見てショービズの世界で売れることが明らかなアネットの力に頼る。

 子供の搾取だという声も、アネットへの歓声も止まない中、ヘンリーはアネットの偉業を自分のことのように振る舞う。

 彼の「何者か(someone)になること」への強い欲望、もしくは強迫観念がよくわかるエピソードだろう。



④男女間の暴力



 この映画の暴力(を彷彿させる)シーンとして、性行為のシーンも無視できない。

 『アネット』で写される性行為は、なんだか不安になる。

 なぜか?

 二人の体格差だ。アンはいつでもヘンリーに覆い被さられるようになり、ヘンリーがアンをくすぐる様も彼女を押さえ込んだりして、二人が夫婦だと知らなければ危険を感じる。

 ヘンリーがアンをくすぐっているシーンもそうだ。くすぐりの笑いは悲鳴のようにも聞こえる。アンを笑わせるための行動なはずなのに、不吉な画に見えてくるのだ。

 

 危険、という状態は、『アネット』の始まりからすでに鍵となってくる。

 アンの登場シーンで、彼女は車に一人、I’m afraidと歌っている。のちに、この歌は「彼のことはわかっていると思っていた。でも彼は見知らぬ人になってしまった」という、相手を信用できなくなった女性の歌だと分かる。

 

 そして、アンのオペラのシーンとして登場したこの歌とリンクして、観客もヘンリーへの疑問を抱くように誘導されている。

 

 

⑤「危険」の単語の用法



 加えて、「危険」という言葉の用法にも注目した。

 アンが自分の生い立ちを歌う歌で、彼女は「女王の王国に王はいらない」から危険な(jeopardy)状態、つまり男を立ち入らせる状態を遠ざけた、と述べる。

 なぜ、「危険」を表す単語がdangerではなくjeopardyなのだろう。

 普通、ミュージカル楽曲では、そこそこ分かりやすい単語が使われることが多いように思う。jeopardyがどのレベルの単語なのか、というのはネイティヴではない私には分かりかねるが、歌詞ならばdangerやdangerousでよかったのではないか。

(ちなみに、Weblioの辞書によると、jeopardyは英検一級以上の単語・レベル11で、dangerousは英検三級以上の単語・レベル1だそうだ)

 

 しかし、そうもいかないらしい。

 dangerとjeopardyの違い、それはどれだけ「危険」の緊急性が高いことだという。

 Cambridge Dictionaryによると、dangerはthe possibility of harm or death to someone。possibility、つまり、可能性はかなり高いがまだharmやdeathの状態ではない、ということだ。

 反面、jeopardyの意味は、in danger of being harmed or destroyedときた。つまり、もう加害されるか破壊されるかの状況にある、ということだ(私の英単語に対する解釈が正しければ)。

 この単語を、自分の半生を語る歌の中に登場させること、そして上述のI’m afraidという感情や、「ヘンリー」という一人の男性のキャラクターの不確かさも引き金となり、徐々に観客の中に「ヘンリーはアンにとって危険かもしれない」という予感が蓄積されていく。

 

 愛にはうんざりなんだ(I’m sick of love)、とステージで叫んでいた彼を、アンの「私は愛だった」(I was love)と重ねて考えても、そこに嫌悪を見出すことができ、ゾッとする。

 そんな彼がwe love each other so muchと歌うことに不気味ささえ覚える。そして、その歌に妻を殺したあとですら執着することも。

 好きだから、愛しているから結婚した、というように描かれていたアンとヘンリーの関係性が、実はヘンリーの中では歪んでいたことが、歌の歌詞からも分かる。

 少し乱暴に映るかもしれないが、ヘンリーは男性社会で培われてきた価値観に毒され、その毒牙にかからざるを得なかったアンは有害な男性性の前で殺された、と抽象的に述べても差し支えないだろう。

 

 

⑥アネットはなぜ木彫りの人形なのか?



 そして、生まれたのがアネットだった。

 冒頭で述べたように、アネットは最初、ヘンリーの夢の中でピエロの顔をして登場する。

 この「ピエロ」というのが重要だ。

 まず、ピエロはいつも冗談ばかり伝えていて、真実を話さないような印象、つまり偽りのような印象があるのではないか。アネット=偽物として捉えると、アンとヘンリーの愛情はどこかが間違っている、という上述した主題にも戻ってくる。

 アネットがピエロの姿・木彫りの人形、という「異質なもの」として登場させることで、「愛の結晶」としての子供、つまり「愛」そのものを、どことなくニセモノっぽいと思わせる効果がある。

 

 次に、このピエロ、これまたシェイクスピアとの関連性があるように思われる。

 シェイクスピア作品の中で、foolと呼ばれる宮廷道化師たち。彼らは、時として王や権力者に意見を言える唯一の存在として扱われてきた。お得意の冗談めいた口調で、真実を告げるのだ。 

 アネットという娘はこの役割を担っていたと考えられる。

 つまり、アネットだけが唯一、アンとヘンリーに物申すことができる・権利がある存在だったのだ。

 ヘンリーは、妻殺しのジョークをショーにすることでファンたちからブーイングを受ける。アンを愛していたという、指揮者の友人も、ヘンリーに意見を伝えることは度々あった。アネットを奇跡の子供としてショーを催すことは子供の搾取だと伝えたり(でも結局承諾するが)、 ヘンリーがアンと自分のラブソングだと思っていた曲は自分が生み出したものだと表明したり、今後について話し合おうとヘンリーの怒りをなだめようとしたり。

 しかし結果的に、どの行為もヘンリーの怒りを増幅させるだけになり、彼は殺されてしまった。

 反面、強固な態度をとったアネットは、ヘンリーに絶望を与えて手を出せなくする。

 ヘンリーと刑務所で対面するシーンで、彼女は「両親を許せない。どっちも私を都合のいいように使って」「パパはもう誰も愛せない」「私はもう二度と歌わない。暗闇の中で生きる」と冷酷な現実を突きつける。

 アネットの言葉や態度に接したヘンリーはなすすべもない。

 理性の声はわずかなんだと弱々しい声で反論を試みるが、アネットは振り返らない。

 

 刑務所でのシーンでまた印象的なのは、アネットがもう木彫りの人形ではないということだ。

 あ、やっぱりちゃんと実在してたのね? よかった、と平凡な感想を抱いたのもつかの間、この映画のエンディングロール前のカットは、刑務所の床に横たわった木彫りのアネット。

 正直そこで混乱したが、前述のアネットのセリフと合わせれば、人形の姿はやはり比喩だったことが明らかだろう。

 幼い頃のアネットは自己主張の仕方を知らない。そもそも言葉も思うように話せない。

 疑問符付きの親の愛情に動かされ、操り人形として振り回されてきた。

 しかし、親から離れ、言葉を話せるようになったアネットは容赦ない。もう操り人形ではないのだと、まだ年齢的には一人の子供だが、同時に一人の人間であることをまざまざと突きつけてくる。

 これは、子供を一人の人間として扱えない親・大人への皮肉のようにも感じられる。

 一般的に、結婚したから子供を持つ、愛しているから子供を持つ、そのような言い方をする。しかし、子供=一人の人間、いつかは自分たちと同じような大人になる人間であると認識しているのか分からないような印象を受ける。

 木彫りの人形から人間への変化は、「子供は子供、大人は大人と切り離せると思っていたでしょ。でも違う」と伝えているような気がしてならない。

 

 

<映画『アネット』は、既存の「愛」に反抗する>

 

 

 「愛」と呼ばれていたものから透けて見える暴力とエゴを、壮大な音楽と美しい映像で描き続けた二時間半。私たちはそろそろ、愛の関係のあり方を見直さなければならないのかもしれない。





追伸:ところで、ヘンリーの頬の傷、あれはどういう意味だったのでしょう。

 映画が進むごとに赤みを増していく様は、彼の存在を「呪われた」一生のように見せるのに一役買っていると思うが、いまいちどこからの引用なのかがはっきりせず。

 単に「赤い」「傷」というだけで、ソーホーンの『緋文字』を連想してしまったけれど、ただの連想で終わりました……。

 また、文中で言及したシェイクスピアですが、彼の作品の中にも『ヘンリー八世』がありますね。その作品との関連性も探れば面白いのでしょうが(特に、セリフに使われている英単語などにフォーカスすると)、そこまでの精査には当たっていません。

 どなたかぜひ!!